石垣島の歴史<歴史と文化、成り立ち>
こんにちは。石垣島ナビです。
今回は、「石垣島の歴史、文化、成り立ち」について、紹介していきます。
石垣島の歴史と文化
石垣島という土地は「常夏の楽園」「南国の観光地」ってだけじゃなく、人類の移動、日本の成り立ちなどを考えせられる場所です。古来からの歴史、催事を大切に残している場所。
石垣島を旅するってことは、ただ単に「楽しい!」ってだけじゃなく、人類の祖先をたどる旅でもあってほしいと思います。
「石垣島ナビ」では。現在の観光情報、お土産、名所も多数記載していますが、残っている名所に由来する歴史、文化も解説していきます。
「なぜ、あんな場所が名所なのか?」っていう疑問も、場所にまつわる歴史を紐解いていくとわかってくることもあります。
現在と過去をつなぐ旅を楽しんでください!
石垣島の地理
石垣島は八重山群島の中で西表島にの次に大きい島です。面積は227.02km2で、空港もあり、八重山諸島の中心の島。
石垣島は、沖縄県で一番高い山「おもと岳(526m)」をはじめ、島の北東部から南西にかけて山地が隆起しています。その麓から宮良川、名蔵川、吹通川、通路川などの川が流れでている地形です。
川は山から南の方に広がる平野に流れており、平野部で集落が形成され、人々が生活しています。
近年では、住宅、道路、港湾、空港をはじめ、大規模な土地改良事業、水利事業、水面埋め立て事業などが進み、島が近代化しています。
近代以前
新石垣空港建設のための洞窟調査で2010年に人の全身化石が見つかりました。
この化石の発見は、沖縄の旧石器時代の人の移動、定住に関して大きな発見です。
沖縄に住みはじめた人々
沖縄本島では約3万2千年前の人の化石が那覇市山下町第一洞窟遺跡で発見されています。また、1万8千年前の「港川人」と呼ばれる人骨も八重瀬町で発見されており、沖縄本島では1〜3万年前の旧石器時代に人が住んでいたことが明らかになっています。
一方、沖縄本島から南西側の先島(宮古島、石垣島など)では宮古島のピンザアブ洞窟で2万6千年前の人の化石が見つかっているだけでした。
2010年の発見以前は、石垣島付近(八重山)では、人の化石の発見がなく、旧石器時代に人が住んでいたかどうかが不明だったんです。2010年の石垣島白保での人の化石の発見は、石垣島にも旧石器時代に人が住んでいたという確たる証拠となります。
その後の調査で、石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞窟遺跡で発見された人の全身化石は約1万5千年前〜2万7千年前の化石だと判明しました。
これは、人類がどう移動して、どのように世界に広がっていったかの大きな手がかりとなる発見です。現在では、人類はアフリカを起源としてヨーロッパ、アジア、北米へ広がっていったという説が有力です。
アジア(中国、台湾)から船を使って与那国島、石垣島へ渡ってきたのではないかという説があり、現在、草舟を使って台湾から八重山へ実際に渡ってみようというプロジェクトも進行中です。物理的に可能かどうかの実験。3万年前の当時は大陸が移動する前だったり、氷床があったりで、現在とは地形が違うとは思いますが、面白い取り組みです。
遺跡・遺物
約4千年前には波照間島の下田原貝塚(しもたばるかいづか)から下田原式土器が見つかっています。同時代の遺跡として石垣島でも「大田原遺跡(おおたばるいせき)」「ピュウツタ遺跡」などからも土器、石斧、サメの歯の首飾り、イノシシの骨なども見つかっています。
同時代(下田原期)の遺跡は石垣島、波照間島の他にも、西表島、与那国島にもあります。波照間島の下田原遺跡では、波照間島にはないはずの<石垣島や西表島の石材>や、<大量のイノシシの骨>などが見つかっています。
このことから、当時の人々は舟を利用して、島々を行き来していたとも考えられています。
新しい時代になると、南蛮、青磁、白磁などの外来の遺物も見つかるなど、外来文化との交流もあったことがわかります。小さい島々ですが、舟を使った交易などが盛んに行われていた証拠です。
現在でも、石垣島の砂浜などを歩くと、波に洗われて角がまあるくなった白磁のカケラなどを拾うことができたりもできます。文化の交流の歴史の片鱗を垣間見ることができる体験です。
日本との交流
奈良時代に作られた「続日本紀」には715年の元日に行われた朝賀の儀において、東北地方の蝦夷(えみし)と南島の奄美・夜久(やく)・度感(とかん)・信覚(しがき)・球美(くみ)の人々が地方の特産物を貢ったと記されています。
「続日本紀」には前年の714年に太朝臣遠建治(おおのあそんおけじ)らが南島の奄美・信覚・球美など、島の人52人を率いて帰ってきたことも記されています。
江戸時代の朱子学者・新井白石は、奄美・夜久(やく)・度感(とかん)は奄美諸島の奄美大島・屋久島・徳之島であり、球美(くみ)は沖縄諸島の久米島、信覚(しがき)は八重山諸島の石垣島であろうと推定しています。
巻物の軸に使われる木が「赤木(アカギ)」だったり、平泉の中尊寺金色堂には多数の「夜光貝(ヤコウガイ)」を使った螺鈿装飾がなされていたりもします。「赤木(アカギ)」は奄美諸島以南、「夜光貝(ヤコウガイ)」も屋久島以南でしか入手できないものです。
直接、日本へ持っていったか、中国経由で伝わったかは不明ですが、いずれにしても、南島諸島が日本、中国との関係を持っていたという証拠になります。
中国との交流
歴史的文献では残ってないですが、石垣島の崎枝赤崎貝塚から33枚の「開元通宝」が見つかっています。「開元通宝」は中国の唐時代621年から約300年に渡って作られた通貨です。
石垣島だけでなく、奄美諸島、沖縄諸島、八重山諸島の遺跡からも見つかっています。
「開元通宝」は本州の西日本の7世紀〜11世紀末の遺跡からも17枚見つかっています。西日本では役所、寺社、墓で見つかることが多いですが、琉球列島の場合は、ほとんどが一般の集落から見つかっています。
交易に使われたかどうかは不明ですが、中国から伝わった経緯を考えると、いろんな想像ができてワクワクしますね。
琉球国との関係
石垣島が琉球国(沖縄本島)との間に交渉を持ったとされているのは今から600年ほど前の14世紀末と伝えられています。
当時、沖縄本島は中国(明王朝)や南海貿易などで、高度の海外文化を取り入れていました。それに比べ石垣島は遅れていたようです。
詳しくはわかっていませんが、当時の琉球国との交渉は交易(鉄製品や磁器など)が主であっただろうと言われています。
15世紀ごろ
15世紀ごろの与那国島は、稲や粟、麦などの穀類、にら、なす、とうがなどの野菜も作られていました。鉄製の農具は少なく、石器や木器なども使われ、食器も土器で5〜6日で壊れてしまう粗末なものでした。
石垣島でも同じような生活をしていたと考えられていますが、よくわかっていません。
石垣島の島内では社会が形成され、各地で有力なリーダーが誕生し、時にはしのぎを削りあったりすることもあったと伝承から推測されています。
南海の争い
1500年に、石垣島で争いが起きました。
石垣島は、琉球国に制圧されてしまいます。
琉球国の勢力に対し、石垣島の大浜村のアカハチ(赤蜂)というリーダーが対抗。世に言う「赤蜂の乱」と言う争いです。
「アカハチ」は石垣島の村々のリーダーを説得。宮古島の勢力、琉球国からの勢力に抵抗します。今でも「強大な権力の支配から自由を勝ち取る戦い」として、人々に語り継がれています。
琉球国の史書には宮古勢と衝突、中央に盾突き、貢物を絶った逆賊として記されています。一方で、民衆を救うべく、あえて反旗をひるがえした英雄であったと言われていたりもする人物。
本当のところはわかりませんが、石垣島の大浜では「アカハチ」の伝説が語り継がれているだけではなく、演劇、戯曲の題材となったりもして人気を博しています。
琉球国との間に起こった争いは、石垣島にとって一つの大きな歴史的転機となりました。島の歴史が外部からの力により、大きく変えられ、中央の支配体系の中に組み込まれていくこととなります。
薩摩の支配
1609年には琉球国が薩摩藩(鹿児島県)の傘下となります。一般に「島津琉球入り」と呼ばれています。
薩摩の付属国となった琉球国のもとで、石垣島の政治的、経済的支配が強化。群島を取り締まる総元締めとして行政の中心「蔵元」、蔵元の下に「村番所」という統治機関が作られました。
蔵元や村番所には、首里王府派遣の在番(所長)、役人が派遣されました。
租税は住民の人数で決まる「人頭税(にんとうぜい)」が導入されます。
石垣島を含む八重山では「石垣間切」「大浜間切」「宮良間切」と3つの仕切りで区切られることとなります。人頭税、間切制度は明治時代まで続くこととなります。
キリシタン事件
1624年に、本宮良頭石垣永将という人を中心にキリシタン事件が起きました。
島の西「冨崎(ふさき)」という場所にスペイン船が来着。永将はスペイン船に乗っていたエルダ神父と接触したため、摘発。渡名喜島への流罪、家財は没収、家族も波照間、与那国、宮古、渡名喜など各島々へ流罪となりました。
当時、キリスト教の信奉は国禁とされていて、永将はその疑いをかけられてしまったのです。
永将は流罪になった後に、薩摩の命令で火刑。永将の弟も同様に火刑となりました。
キリシタン禁圧は江戸幕府の絶対的な禁令だったので、幕府→薩摩→琉球→永将という形で、はるか南方の石垣島まで影響が及んでいたことがわかります。当時の統治の厳しさを知る事件です。
明和の大津波
1771年(明和8年)に石垣島で、未曾有の大津波が発生し、甚大な被害を与えました。
特に石垣島の被害は大きく、人口のおよそ2分の1近くが大波に飲み込まれました。特に島の東側、真栄里・大浜・宮良・白保・伊原間・安良・仲与銘・屋良部などの8村が全壊。大川・石垣・新川・登野城・平得などが半壊。
津波の後も、疫病、凶作、飢饉などで、多くの住民が亡くなり、石垣島の村々は大きな打撃を受けました。
津波以前から開拓を目的として強制移住が行われており、津波後も村の再興のために強制移住は続きます。風害、疫病、飢饉などの自然災害によって移住者の生活は困難を極めます。
強制的に移住させられた者は悲しみの歌(船越節など)を作ったりして、当時の気持ちを今に伝えています。
伊原間に別ぎられ、船越に分ぎられ、誰ぬ主ぬどぅ別ぎだね、じりぬ親ぬどぅ建だね
出典:船越節の一節
異国船
19世紀になると、異国船の漂着がしばしば見られるようになってきます。中には、沿岸測量、陸地調査などハッキリとした目的を持って来島してくる異国船もありました。
1843年には英国軍艦サラマン号が宮良湾沖合に停泊、英国人が上陸し測量調査。役人の制止を聞かずに行ったようです。
漂着では1852年英国船1隻が逆風にあって石垣島「崎枝」沖に漂着。中国福建省から労働者410人を乗せてカリフォルニアに向けての航海の途中でした。労働契約の内容を怪しんだ労働者たちが、船長を亡きものに。
380人の中国人が石垣島へ上陸しました。石垣島の人々は中国人を保護しましたが、英国船は中国人を取り返そうと「冨崎」に英兵が上陸して探索をします。亡くなるもの、山中に逃げ込むもの、自ら命をたつものなどが相次ぎました。
事件はただちに琉球王府、中国政府筋にも伝えられ、残留者は救助され1853年に172人の中国人が本国へ送還。背景には、アメリカで行われていた中国人労働者の貿易<クーリー貿易>。中国での大規模な「苦力貿易反対運動」のキッカケとなりました。
資本主義の海外進出の影響が、石垣島まで伝わってきていたのがわかります。
近代
1879年に廃藩置県により「沖縄県」が誕生。「琉球処分」と言われています。八重山には渡辺処分官らが来島して置県の処分が行われました。
これにより、琉球王府直属の監督官だった「在番」の制度は廃止。代わりに「県令」が任命されました。
那覇警察署八重山分署、八重山収税所などの設置、1880年には八重山島役所の設置。新政権が開始されました。
とは言っても、内実は琉球王国の古い制度が永く存置され続けていくのでした。
廃藩置県後、沖縄県でも苗字の使用を許されることになります。
氏族は、家名を苗字に使いますが、もともと苗字を待たなかった人たちは、地名から苗字をつけました。
石垣島でも、1870年代に庶民への苗字が公認されています。
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制度
明治になっても石垣島を中心とした八重山は依然、貧しい生活。
制度面でも、間切制度が続き、旧行政庁の蔵元も存続することとなります。
1896年に群制が施行され「八重山郡」になります。八重山島役所は八重山島庁となり、役所長も島司と改名。
1897年に「間切・島吏員規定」が施行。間切・村番所は「役場」へと改称。八重山では島司が兼任することとなった。
蔵元は廃止され、旧機構は解体、代わりに「八重山間切役場」となりました。
1908年、「沖縄県及島嶼町村制」が施行。従来の間切は「町村」に、村は「字」となった。
八重山群島を一円とした「八重山村」になり、八重山村役場は字登野城3番地に置かれた。村長は島司の上申によって県知事が任命する仕組み。初代八重山村長には上江洲由恭が就任。
租税の改革として1898年に沖縄土地整理事務局官制を発布。土地の所有権を確定すること、地価を査定することが目的の制度で、地租の課税を実施するために行われました。
1903年に地租条例が施行。人頭税制度は廃止となりました。
永く島人を苦しめられてきた「人頭税」がようやく廃止された瞬間です。
分島問題
1880年「分島・改約」問題が起きます。
これは明治政府が中国との間に結んでいた「日清修好条規」を欧米並みに日本側に有利に改正する代わりとして、宮古・八重山の2島を清国に分割して与えるというものでした。
宮古島、八重山の人々が知らないところで、調印されるところでしたが、清国側の内部事情により調印されず、分島問題は廃案となりました。
調印されていれば、宮古島、八重山は「中国」となっていたってのが分島問題です。
明治の開拓
1882年に農務省役人の田代安定が来島、1885年にも来島し、資源や産物調査、歴史、風俗の調査、殖民開拓の方法について述べるなど、多岐にわたって調査をした。石垣島開拓の重要性が説かれました。
また、石垣島は地理的な条件から政治的にも重要視された。
1886年には内務大臣山縣有朋が来島、1893年には笹森儀助が来島している。
1891年、徳島県人中川虎之助らにより、名蔵開拓。東京の田村熊治らにより、カラ岳西方のトウン野開拓。
1892年には、首里失業士族らにより、シィーナ原、川良原等々の開拓が行われた。
1895年、名蔵において「八重山糖業株式会社」が設立。
しかし、開拓事業は資本金の欠乏、台風、マラリヤなどにより、ことごとく失敗。一方で、改良鋤による馬耕、機械化、貨幣の通用、普通語の普及など、経済面に大きな影響を与える結果となりました。
石垣村の誕生
明治の新県政による石垣島の近代化はなかなか進みませんでしたが、初等教育の開始、郵便、電報、気象観測、海上交通の施設はだんだんと整ってきました。
1914年、八重山村は石垣、大浜、竹富、与那国の4村に分村となり、石垣村と大浜村が生まれた(後の石垣市)。他の離島は竹富村(後の竹富町)、与那国村(後の与那国町)の所管となります。
石垣村初代村長に宮良用著、大浜村長に安仁屋賢托が就任。
1919年には八重山に初めて「国政選挙権」が与えられました。八重山では1920年の衆議院選挙により初めて選挙が実施され、花城永渡が当選。
1920年に特別町村制が廃止。普通町村制になり、町村長も初めて公選で選ばれました。
公選初代石垣村長には玻座真里模、大浜村では花城直俊が就任。
大正から昭和
八重山は「文明開化」の道を歩んで行くことになります。1914年図書館(八重山通俗図書館)の設置。1915年に時報鐘楼設置、1917年「先島新聞」創刊、1921年「八重山新報」創刊。
文明開化に伴い、就学児童も次第に増え始めます。
産業面でも、1914年「真珠養殖事業」の経営、1916年「八重山産業株式会社」設立、1917年「東洋精糖株式会社八重山製糖所」の創設、1922年「農会」の創設、1923年「耕地整理事業」の着手などに取り組みました。
石垣町の誕生
1926年、石垣村は町制を施行の結果、「石垣町」となりました。
昭和の時代も大正時代に引き続いて文明開化が進みます。1927年「先島朝日新聞」創刊、1932年「八重山民報」創刊、1935年「海南時報」創刊。
女教員の洋服着用、幼稚園開設、学校や護岸などにコンクリートが使われるようになっていきます。
1927年「八重山畜産株式会社」の創立。1936年大同拓殖株式会社、八重山製氷会社の設立など、会社設立が相次ぎました。
農業を主軸にする産業面でも、1927年ごろから磯野鋤、脱穀機、唐箕、甘藷苗切機、ホークなどの農機具の導入、普及が行われ、蓬莱米2期作の成功、甘藷、麦、粟、大豆改良種の移入などで、農産物の増殖が行われています。
台風、疾病などの災害は続き、1933年コレラの大流行、大型台風の襲来などの打撃を受けました。
1928年「崎枝村」「桃里村」の廃村、1930年「名蔵村」の廃村、1931年「盛山村」の廃村、1934年「野底村」の廃村が相次ぎます。これはマラリヤの流行が大きく関係した出来事です。
復興史
当時の八重山ではマラリアによる被害が大きく、多くの人が亡くなっています。食料も不足しました。
復興
1945年に自治会が組織され、会長に宮良長詳が選ばれました。八重山支庁の復活です。
1946年に宮良長詳が退任、吉野高善が任命。
1947年には「民政府」と改称、支庁長も知事と改称になりました。
石垣市の誕生
1947年に石垣町は「石垣市」に昇格、大浜村は大浜町に、与那国村が与那国町に、竹富村が竹富町になりました。
1948年には戦後初の市町村長ならびに、議会議員の選挙が行われました。満20歳以上の男女が選挙権を得たこと、婦人議員の当選などが特色の選挙でした。
1949年には八重山独自の教育基準法ならびに学校教育法が公布。全面的な6・3・3制が実施されるなど、新教育がスタートしました。
1950年には石垣市で「八重山復興博覧会」が開催。また、スポーツ大会や舞踊大会などの催しものも開かれています。
琉球政府
1952年に「琉球政府」が発足します。
対日平和条約により、全琉球諸島が米国の施政権下に置かれることとなりました。
復興まで
1950年前後には郡外からの移住、開拓が盛んに行われました。沖縄本島からも八重山へ移住する人が増えました。
石垣島や西表島に宮古島出身や沖縄本島出身の人が多いのは、この移住、開拓の影響です。人口増加、開拓によって新しい村が次々と誕生しました。
1952年には上水道の整備、1955年には商業航空路の開設、石垣島一周道路も完成しました。
1963年に新石垣港が開港、大型船舶が接岸し始めます。
1964年には大浜町を編入合併し、石垣島全島で1市の新石垣市が誕生。
1965年には埋立地による造成地(美崎町)を編入。
1969年には新川地先の埋立地(新栄町)を編入しました。
1969年には愛知県岡崎市と親善都市を提携、交流が盛んになります。
学校教育施設も設立され、1964年に「石垣第二中学校」開校、「私立海星学園小学校」開校。1967年に「県立八重山商工高等学校」の設立開校が行われています。
復興
1972年に本土復帰が実現。日本政府は「沖縄振興開発特別措置法」を制定し、開発振興を推進させました。産業基盤の整備を始め、交通、運輸、通信、教育、福祉などの基盤整備、石垣市でも大型事業の導入などが行われました。
南島文化
建築物
石垣島は八重山群島の中心地のため、かつての要職を務めた役人のお屋敷が多数現存しています。中でも一定の格式と山水式庭園を持つ「宮良殿内」は有名で、重要文化財として国の指定を受けています。
「石垣家の石山式庭園」は、国指定名勝にも指定されています。
寺社
寺社は、1614年創建の南海山桃林寺と権現堂があります。桃林寺と権現堂は八重山における仏教、権現神の伝来を示すものです。桃林寺は沖縄本島の臨済宗本山円覚寺の末寺、権現堂は紀伊熊野権現の神様を勧請したと伝えられています。
また、桃林寺の仁王像は木造彫刻として県内随一と言われ、県指定文化財になっています。権現堂は地方色の濃い社殿で、国指定の重要文化財です。
御嶽
島内にある御嶽は、それぞれ由緒を持つものです。中でも、石垣市の発祥に関する宮鳥御嶽、稲作の伝来に関する大石垣御嶽、鉄器伝来に関する崎原御嶽、航海安全に関する美崎御嶽などが有名です。
御嶽ではないんですが、航海安全、家内繁栄を祈願する「冨崎観音堂」はお正月、七五三などの参拝者で賑わいます。
祭事・芸能
民俗行事は、種子取祭、豊年祭、結願祭、節祭などが農耕儀礼の中核をなしています。
川平の「マユンガナシ」や宮良の「アカマター」はともに来訪神を迎える神事。
こういった祭事と共に「ユンタ」「ジラバ」「アヨー」などの古謡、「赤馬節」「鷲ぬ鳥節」「川平節」などの舞踊、八重山の情緒を歌う「トゥバラーマ」も民俗芸能として知られています。
工芸品
民俗工芸品としては「八重山上布」があり、伝統的な織り技術、植物染料を使った染色技法も伝えられています。
文化財
埋蔵文化財の調査も進んでおり、明治期に発掘された「川平貝塚」、最近補修されている「フルスト原遺跡」などは、共に国指定の文化財にもなっています。
自然景観も優れており、マングローブのヒルギ群落、ヤエヤマヤシ群落、サガリバナ群落などの植物、セマルハコガメ、カンムリワシなどの動物も多く生息しています。
セマルハコガメは天然記念物、カンムリワシは特別天然記念物にも指定されている動物です。
まとめ
石垣島は、旧石器時代から人々が生活を始め、琉球国と関わったり、薩摩藩と関わったり、中国と関わったり、アメリカと関わったりと色んな文化の影響を受けてきた土地です。
様々な文化の導入が行われ、独自の文化を形成してきた土地でもあります。自然環境も亜熱帯性の気候にあったり、動植物相が豊かだったり。時には台風などの自然災害を受けるため、自然への信仰、祭事が伝統として引き継がれていたりと独自の文化、風習が根付いています。
石垣島の歴史を一通り、通してみると、現在観光地になっている名所、旧跡にも色んな歴史、意味が込められていることに気づいてきます。
一つ一つが石垣島の歴史、人々の歴史を作ってくれている、伝えてくれているものです。
ただ、観光するだけじゃなく、背景にある歴史も、少しでも興味を持ってもらえれば嬉しいです。
各自の観光スポットのページでは、さらに詳しく紹介しているので、見てみてください!
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それじゃあ、楽しく旅してね!
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