石垣島の御嶽(うたき)一覧、御嶽の歴史
こんにちは。石垣島ナビです。
石垣島をはじめとした、沖縄には「御嶽(うたき)」と呼ばれる拝所があります。地域に一つはある御嶽。
今回は石垣島の御嶽について紹介します。
目次
- 1 石垣島の御嶽一覧
- 1.1 群星御嶽(ンニブシィオン)
- 1.2 山川御嶽(ヤマオン)
- 1.3 宮鳥御嶽(アーラオン)
- 1.4 浜崎御嶽(キフヮオン)
- 1.5 すくじ御嶽(スクジオン)
- 1.6 川平火の神(オーセーヌピィヌカン)
- 1.7 崎枝御嶽(サキダオン)
- 1.8 名蔵御嶽(ノーラオン)、水瀬御嶽(ミズシオン)、白石御嶽(ティラス)
- 1.9 真乙姥御嶽(マイツバーオン)
- 1.10 長崎御嶽(ナースクオン)
- 1.11 本宮良の主の御嶽(ムトゥメーラヌシュウヌオン)
- 1.12 宮鳥御嶽(メートゥルオン)
- 1.13 長田御嶽(ナータオン)
- 1.14 大石垣御嶽(ウシャギオン)
- 1.15 牛の御嶽(ウシィヌオン)
- 1.16 与那国御嶽(ユノーンオン)
- 1.17 基斗御嶽(キドゥオン)
- 1.18 天川御嶽(アーマーオン)
- 1.19 美崎御嶽(ミシャギオン)
- 1.20 蔵元火の神(ウラヌピィナカン)
- 1.21 真泊御嶽(マドゥマリィオン)
- 1.22 船浦御嶽(フノーラオン)
- 1.23 ユーヌ火の神御嶽(ユーヌピィナカン)
- 1.24 船着御嶽(フナツキィオン)
- 1.25 糸数御嶽(イトゥカズオン)
- 1.26 地城御嶽(ギシュクオン)
- 1.27 大阿母御嶽(ホールザーウガン)
- 1.28 宇部御嶽(ウブオン)
- 1.29 平得火の神(ピサイピィナカン)
- 1.30 古見主の御嶽(クンヌシュウヌオン)
- 1.31 多田御嶽(ターダオン)
- 1.32 崎原御嶽(サキバルオン)
- 1.33 大浜火の神(オーセー・ピィナカンヌヤー)
- 1.34 こるせ御嶽(グリシオン)
- 1.35 大石御嶽(ウイヌオン)
- 1.36 潤水御嶽(ミジィオン)
- 1.37 舟御嶽(フナオン)
- 1.38 大底御嶽(ウフスクオン)
- 1.39 仲嵩御嶽(ナカタキオン)
- 1.40 山崎御嶽(ヤマザキオン)
- 1.41 外本御嶽(フカムトゥオン)
- 1.42 火の神御嶽(オーセー)
- 1.43 小浜御嶽(クモウオン)
- 1.44 嘉手納御嶽(カチガラオン)
- 1.45 真謝御嶽(マジャオン)
- 1.46 火の神御嶽(オーセー)
- 1.47 波照間御嶽(アスクオン)
- 1.48 盛山御嶽(ムリャーオン)
- 1.49 仲夢御嶽(ナカイミオン)
- 1.50 半嵩御嶽(ハンダキオン)
- 1.51 徳底御嶽(トクスクオン)
- 1.52 大底御嶽(ウフスクオン)
- 1.53 久志真御嶽(クシィマオン)
- 1.54 根原御嶽(ニーバルオン)
- 1.55 与那真御嶽(ユナマオン)
- 1.56 西大田御嶽(イールフダオン)
- 1.57 桴海御嶽(フカイオン)
- 1.58 宇根御嶽(ウニオン)
- 1.59 野底御嶽(ヌスクオン)
- 2 七嶽
- 3 神役七役組織
- 4 御嶽の起源と役割
- 5 あわせて読みたい
石垣島の御嶽一覧
名前 | 読み方 | 場所 |
群星御嶽 | ンニブシィオン・ユブシィオン | 川平 |
山川御嶽 | ヤマオン | 川平 |
宮鳥御嶽 | アーラオン | 川平 |
浜崎御嶽 | キフヮオン | 川平 |
すくじ御嶽 | スクジオン | 川平 |
川平火の神 | オーセーヌピィヌカン | 川平 |
崎枝御嶽 | サキダオン | 崎枝 |
名蔵御嶽 | ノーラオン | 名蔵 |
水瀬御嶽 | ミズシオン | 名蔵 |
白石御嶽 | ティラス・シィサスオン | 名蔵 |
真乙姥御嶽 | マイツバーオン | 新川 |
長崎御嶽 | ナースクオン | 新川 |
本宮良の主の御嶽 | ムトゥメーラヌシュヌオン | 新川 |
宮鳥御嶽 | メートゥルオン・ウブオン | 石垣 |
長田御嶽 | ナータオン | 石垣 |
大石垣御嶽 | ウシャギオン | 大川 |
牛の御嶽 | ウシィヌオン | 大川 |
与那国御嶽 | ユノーンオン | 大川 |
基斗御嶽 | キドゥオン | 大川 |
天川御嶽 | アーマーオン | 登野城 |
美崎御嶽 | ミシャギオン・クギオン | 登野城 |
蔵元火の神 | ウラヌピティナカン | 登野城 |
真泊御嶽 | マドゥマリィオン | 登野城 |
船浦御嶽 | フノーラオン | 登野城 |
ユーヌ火の神御嶽 | ユーヌピィナカン | 登野城 |
船着御嶽 | フナツキィオン | 登野城 |
糸数御嶽 | イトゥカズオン | 登野城 |
地城御嶽 | ギシュクオン | 平得 |
大阿母御嶽 | ホールザーウガン | 平得 |
宇部御嶽 | ウブオン | 平得 |
平得火の神 | ピサイピィナカン | 平得 |
古見主の御嶽 | クンヌシュウヌオン | 平得 |
多田御嶽 | ターダオン | 真栄里 |
崎原御嶽 | サキバルオン | 大浜 |
大浜火の神 | オーセ・ピィナカンヌヤー | 大浜 |
こるせ御嶽 | グリシオン | 大浜 |
大石御嶽 | ウイヌオン | 大浜 |
潤水御嶽 | ミジィオン | 大浜 |
舟御嶽 | フナオン | 大浜 |
大底御嶽 | ウフスクオン | 大浜 |
仲嵩御嶽 | ナカタキオン | 宮良 |
山崎御嶽 | ヤマザキオン | 宮良 |
外本御嶽 | フカムトゥオン | 宮良 |
火の神御嶽 | オーセー | 宮良 |
小浜御嶽 | クモウオン | 宮良 |
嘉手納御嶽 | カチガラオン | 白保 |
真謝御嶽 | マジャオン | 白保 |
火の神御嶽 | オーセー | 白保 |
波照間御嶽 | アスクオン | 白保 |
盛山御嶽 | ムリャーオン | 盛山 |
仲夢御嶽 | ナカイミオン | 桃里 |
半嵩御嶽 | ハンダキオン | 伊原間 |
徳底御嶽 | トクスクオン | 平久保 |
大底御嶽 | ウフスクオン | 平久保(安良) |
久志真御嶽 | クシィマオン | 平久保(久宇良) |
根原御嶽 | ニーバルオン | 川平仲筋(吉原) |
与那真御嶽 | ユナマオン | 川平仲筋(吉原) |
西大田御嶽 | イールフダオン | 桴海(米原) |
桴海御嶽 | フカイオン | 桴海 |
宇根御嶽 | ウニオン | 桴海(米原海岸) |
野底御嶽 | ヌスクオン | 野底 |
群星御嶽(ンニブシィオン)
八重山島由来記では「稲ほし御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。「稲ほし」という名前は、当時の役人が「ンニブシィ」を「イニホシ」と間違ったようで、後に「群星」と書き改められました。
村での言い伝えによると、川平村の始まりの家である南風野家の娘さんが、夜中に目が覚め、外に出てみると、群星が中天に差し掛かった時、細長い円筒状の霊火が群星と地上を昇降しているのを見た。不思議に思ったが、その後も度々霊火を目にしたので、家族や村の長老に相談してみた。「それは、まさに神様の天降りだろう」ということになったので、その場所を調べに行ってみると、白米の粉で丸く印がつけられていた。そこに御嶽を立てて「群星御嶽」とし、村人の信仰の中心となった。
という言い伝えがあります。現在でも、村の重要行事は「群星御嶽」を中心に行われています。
群星とは
群星(ンニブシィ)は古くから「ムリカブシィ」「ユブシィ」として知られていた星です。星座の名前は「おうし座」の「プレアデス散開星座」。和名は「すばる」と呼ばれている星で、八重山の民謡では「クナーブシィ」「フナーブシィ」と呼ばれています。
暦のなかった昔は、星見石を立てておき、星見石と星の位置を読んで農作業を進めていました。「すばる」は島の人々から天使として崇められており、石垣村の「ムリ星ユンタ」などでも歌われています。
山川御嶽(ヤマオン)
八重山島由来記では「山川御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。シーヌ願(猪害防止の願)が行われている御嶽です。
村での言い伝えによると、昔、平田の主が筑登之(ツクドウン)という位を授かったので、琉球王府へ表敬挨拶に行くことになった。途中、暴風に遭い、漂流し、宮古島の山川部落の海岸に漂着。そこで、部落の人々のお世話になり、部落の御嶽に祈願したところ、風も収まり、海も穏やかになって、無事、任を終えることができた。
帰路、山川部落の人々、御嶽の神様に深く感謝し、御嶽に奉請して分神を賜った。村へ持ち帰り、御嶽を建てて祀ったと言われています。山川御嶽の香炉は、その由来から、宮古島の方角に向いて置かれていると言われています。
宮鳥御嶽(アーラオン)
八重山島由来記では「赤いろ目宮鳥御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。
村での言い伝えによると、昔、農作物が食い荒らされることのないよう、毎日、朝夕農耕地を巡回して逃げた牛馬はいないか、作物が荒らされていないかをチェックする役職「野夫佐(ヌブサ)」「馬夫佐(ンマブサ)」があった。毎月、結果を川平村の神司へ報告。川平村の神司は、石垣村の宮鳥御嶽の神司へ報告し、宮鳥御嶽の神様へ報告するのが習慣になっていた。
当時は、川平村から石垣村へは、険しい山を越えていかなくてはならなかったので、深く同情され、石垣村の宮鳥御嶽の分神を勧請して、川平村に「赤いろ目宮鳥御嶽」を建てた。
赤いろ目宮鳥御嶽という名前ですが、なぜ「赤いろ目」という名前がついたのかは、記録が残ってなく不明です。
宮鳥御嶽の境内にカーラ石(阿香石)が祀られています。石は「ビッチュル」と呼ばれ米俵を象徴している石。豊年祭では、豊作を感謝する意味で、青年が「ビッチュル」を担いで肩に乗せて境内を回る<ビッチュルかつぎの行事>が行われます。
浜崎御嶽(キフヮオン)
八重山島由来記では「濱崎御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。
村での言い伝えによると、川平の前田多家に、博愛心に富んだ娘さんがいました。川平湾は湾の構造上、波風が入って来にくい地形だったので、嵐になると、大型船が難を避けるため、入港して来ます。娘さんは、風待ちをする船乗りのために、お世話をしたり、天神・海神に祈願したりとできる限りを尽くしたと言われています。
その徳行が琉球王庁の耳まで届き、娘さんに対して送られた「香炉」を祀ったのが浜崎御嶽の始まりと言われています。
名前の由来は、川平湾を「キフヮトゥ」「キフヮンナトゥ」と呼ばれていたのでその名前をとってつけられました。現在でも、川平公園展望台下の砂浜は「キファ」と呼ばれて親しまれています。(湾内の小島「ムクバナリ」「クババナリ」「サイバナリ」「チャバンチキバナリ」もパカーラ(聖地)に含まれる)
すくじ御嶽(スクジオン)
八重山島由来記では「しこせ御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。
村での言い伝えによると、スクジ湾に寄港した船の乗組員と、村娘が恋仲になり、滞在中に男子を出産。乗組員は船で帰ることとなったので、旅妻となった娘は、彼の海上安全を祈願した。その祈願場所が現在の「すくじ御嶽」となったと言われています。
現在では、ニライカナイの神を奉送する節祭りの神願いの最後の願い場所になっています。
川平火の神(オーセーヌピィヌカン)
現在の川平公民館の東に祀られてます。古くは、村番所(オーセー)のあったところです。オーセの火の神は、村全体の火の神で、村人の生活を守るという意味がありました。1908年に旧制度だった間切制が廃止となり、村番所(オーセー)も廃止となりました。その後は木の下で祀られていた火の神も、コンクリート造りの小さな祠に祀られることとなりました。
火の神祭祀は、毎年旧暦の正月四日、神司と村の役者によって執り行われています。
崎枝御嶽(サキダオン)
八重山島由来記では「崎枝御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。
由来は不明ですが、八重山島諸記帳には、
美崎宮鳥長崎天川糸数名蔵崎枝 此七嶽毎年上國役人立願結願仕候是は定納船弐艘上下海上安穏之為
という記録があり、「美崎」「宮鳥」「長崎」「天川」「糸数」「名蔵」「崎枝」の七つの御嶽は「七嶽(ななたけ)」と呼ばれていたようです。
神司の言い伝えによると、昔は、定納船2隻で首里王府へ上ったり下ったりしていた。その時、大阿母をはじめ、七役の各神司は七嶽参りをして、航海安全、公務無事を祈った。崎枝御嶽も、その一つで、諸役人、大阿母、神司、伯母、姉妹などの航海安全の祈願所としての御嶽。航海の神、五穀の神だったと言われている。1897年の蔵元廃庁、1914年の崎枝村廃村とともに、信仰も薄れてしまった。
1948年の自由移民による崎枝村再建とともに、1952年には御嶽の香炉が、土中から掘り起こされ、鳥居も建てられた。御嶽には、於茂登の神へのお通し、沖縄へのお通し、水元へのお通しの香炉もあると言われています。
農民の豊年、豊作祈願だけでなく、航海関係者、漁民の関係者の参詣もある御嶽。
名蔵御嶽(ノーラオン)、水瀬御嶽(ミズシオン)、白石御嶽(ティラス)
八重山島由来記ではそれぞれ「名蔵御嶽」「水瀬御嶽」「白石御嶽」とあり、兄妹三人(男2人、女1人)の神様の伝説が残っている御嶽です。於茂登の神様を祀る御嶽で、於茂登の神は「おもと大あるじ」として諸神の上に君臨する最高神。於茂登の神を祀る名蔵御嶽は八重山の最高神を祀る御嶽として栄えた御嶽です。
名蔵御嶽は、古くから七嶽の一つとして役人をはじめとする航海安全祈願御嶽です。御神体は於茂登山全体であると言われています。於茂登岳は神岳として崇敬され、八重山諸島民信仰の中心をなしてきた山。
多くの御嶽には「ウムトゥティラス」への通しの香炉があって於茂登の神が神々の中でも最も中心をなした最高神であったことを物語っています。また、竹富島をはじめ、多くの離島では、赤ん坊が生まれると於茂登岳が見える場所まで抱いて行き、於茂登の神に挨拶させたという「於茂登拝まし」という習慣がありました。
これらのことからも、古い時代の信仰の中心が「於茂登岳」だったこともわかってきます。
「水瀬御嶽」は水元の神様として信仰されています。雨乞いの行事が行われる御嶽です。水瀬御嶽で雨乞いの行事が行われた後、登野城村北方のイヤスン、クバントの両御嶽で雨乞いをし、最後に天川御嶽で雨乞いをするのが習慣でした。
「白石御嶽」の神様は「天照らすの神」で、毎年旧暦一月一日に天から天降りされると言われています。
名蔵の三嶽は、大和の国(日本)の信仰と似ていることから、大和国よりの渡来神であると伝えられています。様々な記録からも、政治的な支配者がいなかった時代は、神が島の宗教的な支配者として大きな役割を果たしていたと考えられます。
真乙姥御嶽(マイツバーオン)
真乙姥(マイツバー)は1500年のオヤケアカハチの乱の立役者「長田大翁主」の妹。真乙姥は乱を納めた後に、美崎山へ籠り、王軍の無事の凱旋を祈願。その功績から、平得村の多田屋遠那理とともに、中山王府に召出され、尚真王から「永良比金(イラビンガニ)」の神職を授けられました。その真乙姥を葬ったお墓が「真乙姥御嶽」となっています。
関連記事>>>美崎御嶽
真乙姥御嶽の片隅にはアカハチの妻として誅された、妹「古乙姥(クイツバー)」のお墓がありました。別名「ツダミ墓(カタツムリの墓)」と呼ばれ一般市民に踏ませるような作りだったと言われています。1970年には大浜部落会の人々が古乙姥の遺霊をアカハチ顕彰碑の一角に建てた小さい祠へ移し供養しています。
豊年祭
石垣四カ村(登野城、大川、石垣、新川)の豊年祭は、第一日目はそれぞれの村の御嶽で行い、第二日目は新川の真乙姥御嶽で合同の豊年祭を行うのが恒例となっています。
第一日目を「オンプール」、第二日目を「ムラプール」と呼ぶ行事。「プール」とは「穂利祭」で豊年祭の意味。今年の豊年を感謝し、来年の一層の豊作を祈る祭祀です。
四カ村合同でのムラプールが行われるようになったのは、1771年の大津波の数年後の与那覇在番の時代からであろうと言われています。津波で意気消沈した農民の士気を鼓舞するため、稲作生産の増大を図るという狙いがあったようです。
ムラプールでは、各村ともに、豪華な旗頭の奉納や、巻踊り、綱引きなどが盛大に行われています。
長崎御嶽(ナースクオン)
八重山島由来記では「長崎御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。石垣町史によると、長崎家の祖が、森のあたりを通るたびに霊火が森林中に現れたので、霊火が出るあたりに近づいてみると「夫婦石」があった。これを霊石と信じ、信仰することにした。すると、その年から周辺の村が不作の年でも、自分たちの田畑は不作にならず、豊作を得た。これは、神霊の加護に違いないというので、周りに話をすると、皆が参拝し、御嶽として信仰するようになった。
と書かれています。明治の頃までは、かなり広大な境内だったようで、イビも3箇所ほどあったようです。現存しているのは2つですが、イビの他にも「アラマリナー」という神井戸も存在していました。八重山島諸記帳に書かれている、七嶽の一つです。
関連記事>>>【長崎御嶽】石垣島<新川>での癒し体験、公園のような身近な御嶽
アラマリナー
御嶽の西方に泉水が湧き出たので村人は神井戸として、井戸の水を長崎御嶽の神前に捧げました。井戸の名前を「アラマリナー(新生井戸)」と名前をつけました。「アラマリナー」は池上永一さんの小説「風車祭(カジマヤー)」にも登場する井戸で、石垣島でも有名な井戸の一つです。
1757年に新川村が石垣村から独立したときの名前「新川村(アラカームラ)」という名前は「アラマリナー」に由来しているとも言われています。沖縄で「カー」には「井戸」の意味がある方言です。
本宮良の主の御嶽(ムトゥメーラヌシュウヌオン)
本宮良の主「石垣永将」を祀る御嶽です。1624年のキリシタン事件で火刑になった石垣永将を祀った御嶽で、実際に火刑になった場所に建てられた御嶽だと言われています。
関連記事>>>石垣島の歴史<歴史と文化、成り立ち>
宮鳥御嶽(メートゥルオン)
八重山島由来記では「宮鳥御嶽」とあり、由来も書かれている御嶽です。
昔、石垣島には、村の定めもなく、争いによる奪い合いが多発していました。「またねましす」「なたはつ」「平川かわら」という信心深い三兄弟の神様がいて、「石城山(イシスクヤマ)」「宮鳥山」に住んでいました。多くの人の命を争いで失ったことに対して心を痛めた神様は「宮鳥山」近くの石垣に降りてきて、豊作にさせると、人々が次第に集まってきて村を形成し始めました。これが今の石垣村、登野城村の始まりと言われています。
以降、「宮鳥御嶽」を作って、神様を祀っています。この内容は、八重山の古代の歴史を伝える貴重な内容とされています。八重山島諸記帳に書かれている、七嶽の一つです。
宮鳥御嶽の神様に捧げる水を汲んだ井戸「ソーソーマカー」は八重山島の掘抜き井戸の始まりと歌われています。(古謡ソーソーマカージラバ)ソーソーマカーは石垣市街に存在する古い井戸の一つで「フタナカカー」と呼ばれている井戸です。
明和の大津波では、宮鳥御嶽の前の道路(現在の市道横4号線)まで達しましたが、御嶽に被害はありませんでした。人々も「御嶽の神様が両手を広げて、これ以上進むなーと波を押しとどめた」と信じられています。
明和の大津波で被害を受けた桃林寺の権現堂も一時、宮鳥御嶽の境内に仮宮を建て、遷座させた時代がありました。1771年の津波から15年後の1786年に権現堂が再建されるまでは、宮鳥御嶽の境内に一時移されていました。
宮鳥御嶽境内の東側にある「リュウキュウチシャノキ」は沖縄県指定の天然記念物に指定されています。現在の「石垣小学校」の敷地も、以前は宮鳥御嶽の敷地でした。境内を縮小し、以前境内だった場所を小学校の土地として利用しています。
長田御嶽(ナータオン)
長田大翁主(ナータフージィ)信保を祀った氏御嶽(ウジオン)です。1500年のオヤケアカハチの乱で偉功を得た長田大翁主は石垣島の頭職になり、島を納めました。その功績から長田御嶽が建てられ、祀られたと言われています。
市道横2号線に面した御嶽です。
大石垣御嶽(ウシャギオン)
大石垣御嶽は稲を八重山に伝えたという伝承がある御嶽です。祀られている神様は「タルフヮイ」と「アンナン」という渡来の神様です。
雨乞いの際にいろんな山々の御嶽に祈願したが効果がなかったので、「大石垣山」の墓に参詣し、祈願したところ、大雨が降り、島民はその霊験に感謝。拝所を建てたところ、村人も厚く信仰するようになった御嶽です。
改築にあたり、西北に柱を建てる穴を掘ったところ、泉水が湧き出してきたので、水元の神様と言われています。
大川村の豊年祭、種子取祭、水元の願い、雨乞いなどはすべて大石垣御嶽を中心に行われています。
牛の御嶽(ウシィヌオン)
牛馬の繁昌、健康を祈願する御嶽ですが、来歴等は不明です。ミジュナー(水名)の一本松の下に香炉が置いてあるだけの質素な御嶽でした。祭祀祈願の場所が御嶽になったと言われています。大川村では毎年旧暦の九月九日に獅子祭りの祭祀をしていました。獅子の魔除けの霊能を持って牛馬の健康、繁昌を願う祭りのようでしたが、1937年以来途絶えてしまっています。
与那国御嶽(ユノーンオン)
大川村の海岸端にあった御嶽。八重山島由来記への記載はない御嶽です。
大津波にまつわる伝説の中に登場する御嶽で、八重山古謡バシィユンタの歌われた聖地であるとも伝えられています。このことから八重山島由来記(1705年)以後、大津波以前(1771年)の建立だと考えられます。
明治以前は与那国御嶽の周りは、うっそうとしたジャングル地帯でガジュマル、アコウなどの熱帯林が広がっていました。海が近いので、神様の使いである、大海亀も上がってきたという伝説も残っています。
八重山民謡の有名な歌「鷲の鳥節(バシィヌトゥルブシィ)」は「バシィユンタ」から改作されたものです。「バシィユンタ」は与那国御嶽のある密林地帯に生えていた大きなアコウの木に巣を構えたカンムリワシを歌っていると言われています。
基斗御嶽(キドゥオン)
大川村の元牛ヌ御嶽の場所にある御嶽です。神司の伝承によると、戦後再建された御嶽ですが、以前は石垣村(登野城、大川、石垣、新川)が崇敬し、結願祭なども行われた聖地です。
火の神の願い、水元の願い、竜宮の願いなどが、年間の主な祭祀です。
天川御嶽(アーマーオン)
八重山島由来記では「天川御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。
村の伝承によると、新城家の祖先に「野佐真(ヌサマ)」という霊威高い人がいた。野佐真は、村きっての篤農家で、いつも天川のイベ(霊石)を信仰していた。ある年、八重山全体が不作の年でも野佐真の畑だけは豊作だった。天候不良で農民が種子を無くした時は、野佐真は自分の種子を配って恵み与えた。飢饉の時には、食料を島民に分配して救済した。
釣りに行く時も天川のイベにお参りをしていくと、野佐真が釣りにいく時だけは大漁になり、皆におすそ分けをするのが楽しみだった。という言い伝えが残されています。
野佐真が、天川の霊石をよく信仰したため、登野城の一般村民も豊年・豊漁の神として信仰するようになりました。
関連記事>>>【天川御嶽】石垣島の街中で癒し体験、孤高のヒーリングスポット
七嶽の一つにも数えられ、航海安全の祈願がされる場所でもあります。
1771年の明和の大津波の時に流されてしまいましたが、1775年に再建されました。登野城村の結願祭は天川御嶽で行われていました。12年に一度開催される行事。1936年、1948年、1963年、1974年、1986年、1998年、2010年と行われています。
美崎御嶽(ミシャギオン)
八重山島由来記に「美崎御嶽」として記され、由来は、オヤケアカハチの乱の後、王軍の帰還の際に、乱の立役者「長田大翁主」の妹「真乙姥(マイツバー)」が美崎山で断食をして航海の無事を祈ったことが御嶽の始まりとされています。
球陽の記録には、無事帰還した王軍の船。琉球王府にも真乙姥の霊効が届き、「真乙姥」と「多田屋遠那理」が琉球王府に呼ばれることとなります。王様は、真乙姥を最高神職「大阿母(ウフアム)」を任命しますが、真乙姥は、遠那理へ大阿母の役職を譲ります。王様は、真乙姥に「永良比金(イビランガニ)」の役職を与えたとの記載があります。
この記述は、オヤケアカハチの乱以後の混乱した八重山情勢を考えて、「大阿母」「永良比金」の両名に八重山の新たなる統治を命じるための人選だったと言われています。
これらの事情から、美崎御嶽は「航海安全の神」として崇敬されていくこととなります。
公儀御嶽
美崎御嶽は、王様から役職を授かった経緯から、王国時代は最高の神格を誇る御嶽として蔵元の管理下におかれました。美崎御嶽は創立当初から首里王府との密接なつながりがあったので「公儀御嶽(クギウタキ)」と呼ばれ、国家的儀式や大雨乞などの行事は、すべて美崎の神前で大阿母を祭主として行われてきたという歴史があります。
八重山島由来記の<大阿母役目之事>にも、「王国の安泰」「公用船の航海安全」「豊作」などの重要祈願祭祀は、美崎御嶽で大阿母が祭主となって行うことと記載されています。
石垣島の公式祭事の中心となっていったのが「美崎御嶽」でした。
蔵元火の神(ウラヌピィナカン)
八重山島大阿母由来記の、<御蔵元火神由来之事>によると、今帰仁から八重山の守護神として「おたいかね」という神様がいらっしゃったと書かれています。
火の神は古くから御蔵元の火の神として崇敬され、大阿母による定例の公式祭祀祈願が行われていました。火の神は住民の生活を守るだけでなく、「王国の安定」「蔵元政治の守護」としての意味合いもあり、「政治火の神」という呼び名もあったと伝えられています。
現在は、蔵元跡となっていた場所ではなく、1953年に蔵元にあった火の神を「美崎御嶽」の境内に遷座させています。
真泊御嶽(マドゥマリィオン)
八重山島由来記には記載されていない御嶽です。
古くは、一般的に「美崎真泊」と呼ばれていた御嶽で、周囲に立派な切石の石垣をめぐらし、鳥居もあったと言われています。航海安全の神様として崇敬され、八重山における金刀比羅宮のような存在でした。
1902年の道路開通の時に、やむなく美崎御嶽の境内に遷座させましたが、1957年に元の場所に拝殿が再建されました。
船浦御嶽(フノーラオン)
八重山島由来記には記載されていない御嶽です。古くから航海安全の神を祀る御嶽として知られています。美崎御嶽の西南方、美崎の浜に近い場所にある御嶽です。古くから蔵元の造船施設「船浦(フノーラ)」があった場所です。
八重山蔵元の公用船(馬艦船:マーランセン)の造船、修理、保護を行うための掘割り石積みの施設でした。
船浦御嶽の場所は、船浦関係者による、造船や航海安全を祈願する場所でしたが、長い年月を経ることによって島民も信仰するようになり、龍宮の御嶽と呼ばれるようになりました。
船浦の施設が台風によって流された後は、御嶽も流され、信仰が途絶えていましたが、1960年に改築されました。
ユーヌ火の神御嶽(ユーヌピィナカン)
八重山島由来記には記載がない御嶽です。民間伝承では、長田大翁主が建設したとも言われている御嶽です。1500年のオヤケアカハチの乱の時に、弟2人を失った長田大翁主は、崎枝に逃れ、一人の老婆(アーパ)の家に身を隠した。アカハチはその家にも長田大翁主を探しにきたが、老婆は穴を掘って長田大翁主を隠し、土をかぶせ、その上で火を焚いて煮物を作っていた。これを見たアカハチは、長田大翁主を見つけることができず、引き返していった。
のちに、長田大翁主はあのピンチを逃れられたのは火の神のご加護のおかげだと感謝し、美崎山に拝所を作り火の神を祀ったと伝えられています。
ユーヌ火の神の祭祀は、豊年、豊作祈願の御嶽ですが、旧暦の十二月二十四日には各村の神司が、年度の神事を報告するために集まる場所でもあります。
船着御嶽(フナツキィオン)
八重山島由来記に記載はなく、由来は明らかではない御嶽です。船着場の目の前にある御嶽なので、公用船、一般民船、漁船の発着場として利用されている場所です。航海安全、豊漁祈願などが行われて自然にできた御嶽と考えられています。
ハーリー(海神祭)の時には、船着御嶽で祭祀が行われ、糸満漁民の女性だけで行う行事「門御願(ジョウウガン)」も船着御嶽で行われます。
糸数御嶽(イトゥカズオン)
糸数御嶽は、黒島出身の舟道石戸(フナドウイシト)という人が建てたと伝えられています。1732年に黒島から石垣島の野底へ強制移住を命じられた中の一人が舟道石戸です。舟道石戸は信仰が深く、念佛経を全部読誦し、祭式の法も習得していたので、大川村の高台地に家を構えて住むことを許されました。
舟道石戸は葬式などの儀式で社会奉仕活動を行うこととなります。その功績により首里王朝へ召出され「親雲上(ベーキイン)」の位を授けられ「辻野親雲上」と名乗るようになります。
公用で度々首里に行くことになる際に、家族が航海安全を祈願した場所が糸数御嶽となりました。
地城御嶽(ギシュクオン)
八重山島由来記の記録はないが、八重山島大阿母由来記に記載がある御嶽です。
沖縄本島辣の御嶽の3体の神様のうちの1人が、八重山に移り賜ったという内容で、「琉球王国の安泰祈願」、在番等が到着したときも、はじめに拝む御嶽とされていました。
地城御嶽は、美崎御嶽などと同様に蔵元公事と関係が深い御嶽だったことがわかります。社格の高い御嶽です。
大阿母御嶽(ホールザーウガン)
八重山島由来記には記載されていない御嶽です。八重山の初代大阿母「多田屋遠那理」の墓が崇敬され御嶽となったものです。大阿母御嶽は平得村の年中祭祀の中心の御嶽で、豊年祭、結願祭、種子取祭などが行われている御嶽です。
多田屋遠那理は1500年のオヤケアカハチの乱の鎮定後、王軍の無事凱旋を祈願するため、美崎山に参籠断食中だった「真乙姥」を助けた功により、王様から最高神職の「大阿母」の役職を授けられました。
平得村の伝承では、多田屋遠那理が豆腐作りの塩水を汲むために美崎山の小道を歩いていた。失神状態にあった真乙姥を発見し、生米の汁を与えて助けた。という言い伝えが残っています。
宇部御嶽(ウブオン)
八重山島由来記では「をほ御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。
平得村に7人の兄弟がいて、兄弟は、武芸達者で、力も強く、村の平和を守っていた。そんな7人兄弟のために建てた御嶽が「宇部御嶽」と言われています。
平得火の神(ピサイピィナカン)
もともと村番所(オーセー)に祀られていた火の神ですが、1897年の蔵元廃庁とともに、村番所も役目を終えることとなります。各村では、当時の縁故者によって火の神の信仰が継続されたり、御嶽として遷座した村もあります。平得村では、公民館の構内に小さな祠を建てて祀っています。
古見主の御嶽(クンヌシュウヌオン)
西表島の「古見の主」と呼ばれる高位の人を祀ってあるお墓が御嶽となったものです。経歴などは不明ですが、登野城の多田家の子孫が祭祀を行なっています。
多田家の遠縁に当たる人なのではないかと推測されており、多田家一統の御嶽です。豊年祭、種子取祭、八月願などの祭祀が行われています。
多田御嶽(ターダオン)
真栄里海岸「多田浜」にある御嶽です。海岸のサンゴ石の上にある御嶽で、変わった形式の御嶽です。1500年のオヤケアカハチの乱の平定後、王軍の無事の帰還を願って断食祈願していた「真乙姥」を救った多田遠那理。王様から「大阿母」の役職を受けることになります。
多田屋遠那理は大阿母になってから、しばしば上国しましたが、ある年大風にあって、阿南まで流されてしまいました。阿南から帰る時米種子(マイダニ)、粟種子(アーダニ)を貰い受けて、沖縄経由で無事帰島しました。帰る船の船頭が不慣れで美崎浜を通り越して真栄里の南海岸で上陸。
それから多田屋遠那理が帰島した浜を「多田浜」と呼び、米種子、粟種子を一時的に置いた岩の下は、作物の神様が宿ったと拝まれるようになり「多田御嶽」となりました。
平得村の種子取祭は多田御嶽で行われます。前夜から翌日の午後まで、盛大に行われるのが特徴の神事です。
多田御嶽の碑は南向きに建てられており、この碑を中心にして十間(約18m)以内の採石、採砂は禁止されています。そのため、波で打ち上げられたサンゴ石が御嶽の周辺を取り巻いている風景が見られます。
「多田御嶽の下の石が波にさらわれることなく、沢山ゴロゴロしている時は、世果報(ユガフ:豊作豊穣)の年である」という言い伝えもあります。
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崎原御嶽(サキバルオン)
八重山島由来記では「崎原御嶽」とあり、由来も書かれている御嶽です。
昔、大浜に「古くひるまい」「幸地玉かね」という兄弟がいた。石垣島には、当時、鋤鍬鎌などの農機具がなかったので、船を作って鹿児島県の坊泊まで行って、鋤鍬鎌を買った。帰ろうとすると、老人が近づいてきて「どこからきたのか?」と尋ねてくるので、「石垣島からきました」というと、「鋤鍬鎌の他にも、神様を授けよう」と言って授かったのが始まりと書かれています。
崎原御嶽は鉄との関係を持って創立された御嶽だと言われています。
1771年の明和の大津波の時、崎原御嶽も流されてしまい、一時、古里山(現在のフルスト原と思われる)に奉遷されましたが、間も無く再建した歴史もあります。
大浜火の神(オーセー・ピィナカンヌヤー)
大浜村の元番所(オーセー)は、現在の公民館の敷地にあって、村役人が常駐していた施設でした。村の諸祈祭は番所から始まり、各御嶽の神司、村の代表者、番所の役人が揃って供物をお供えして執り行ったと言われてます。
番所の廃止後、小屋を建て、火の神を遷座。村の守護神として元どおり祭祀をおこなっています。「火の神社殿(ピィナカンヤー)」や、元どおり「番所(オーセー)」と呼ばれています。
こるせ御嶽(グリシオン)
八重山島由来記では「こるせ御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。
古くあった黒石村の御嶽だと推測されます。黒石村は「こるせ御嶽」より南方へ通じる大浜中道の周りにあり、かつては「グルシムリィ」と呼ばれる森林地帯があったと言われています。大浜幼稚園の南には「グリシヤー(黒石家)」が現存しています。
1771年の大津波で流され、一時、古里山へ奉遷されましたが、のちに大浜村へ再建。津波以前にあった南大浜、黒石、ふるすとなどの小村が合併され大浜村となったようです。黒石村の名前は以後なくなりました。
大石御嶽(ウイヌオン)
明和の大津波以後の創立で、八重山島由来記には記録はありません。
明和の大津波後、波照間島から強制移住させられた稲福、大浜、田盛の三兄弟が中心となり、波照間島の大石御嶽からの分神を勧請してフルスト原の聖地に祀り、一門の氏神にしたのが御嶽の始まりとされています。
フルスト村は飲料水の確保が難しく、大浜村と合併されたと言われています。大浜村への合併後、現在の場所に遷座されています。
潤水御嶽(ミジィオン)
八重山島由来記では「をのみち御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。
潤水(ウルミジィ)を「をのみち」と聞き間違って書き伝えられたものだと言われています。御嶽の神名も「大ウルミヂィ中ヌ原」とあるので「ウルミジィ」が正式な名前のようです。
大浜村の水元の神として信仰を重ね継承されてきた御嶽です。
舟御嶽(フナオン)
潤水御嶽から分神して祀った御嶽だと言われています。船着場で、航海の安全と「舟のタマシィツィキ」を祈願する御嶽。刳り舟(くりぶね)を新造すると御嶽に備え、浜カズラを船の舳先に巻きつけ、供物を備え神司により命名と航海安全を祈願した。昭和の初期ごろまで行われてきた神事です。
大底御嶽(ウフスクオン)
八重山島由来記では「大城御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。
名前から、大城村の御嶽だったと推測できます。大城村は、1628年、大浜村、崎原村とともに存在していた村です。場所はフルスト原北方の低地だったと考えられています。
1681年の洪水の際に、大浜村へ合併されたと伝えられている村です。後に大浜村の前盛家の祖先「大底親雲上翁」が崎原御嶽から豊作の神様として御神体を迎え、創建した御嶽とされています。
また、大底御嶽の神が安良村に遷し祀られたとも言われています。ですが、安良村への奉遷後、御嶽があった場所で、しばしば不思議な火の神現象がおこったので、御嶽を再興しました。それが現在の「大底御嶽」です。
仲嵩御嶽(ナカタキオン)
八重山島由来記では「仲嵩御嶽」とあります。
仲嵩御嶽(宮良村)、山崎御嶽(宮良村)、外本御嶽(宮良村)、嘉手納御嶽(白保村)、真和謝御嶽(白保村)、多原御嶽(白保村)の6嶽は由来を共にしていると書かれています。
上記6嶽の創立が、宮良村、白保村の礎になっていると言われています。石垣、登野城村の礎となった宮鳥御嶽と同様に、古代の八重山の社会的秩序を作ってきた御嶽の一つとされています。
争うごとが多かった社会を御嶽を作ることによって村という組織にまとめる役割をしてきた御嶽。歴史的な資料としても貴重な記録です。
山崎御嶽(ヤマザキオン)
八重山島由来記では「山崎御嶽」とあります。創立の由来は「仲嵩御嶽」と同じです。
仲嵩御嶽の南に位置し、山崎山の中にあるので「山崎御嶽」と呼ばれています。水元の神として信仰されてきた御嶽です。その後、宮良湾岸に移転し、「浜崎御嶽」とも呼ばれるようになりました。
外本御嶽(フカムトゥオン)
八重山島由来記では「外本御嶽」とあります。創立の由来は「仲嵩御嶽」と同じです。
「宮良山崎御嶽」の記述内には「外本御嶽は元敷内(下の村)にあって、村民の幸福繁昌と村落の平和の祈願が主体である」と述べられています。
火の神御嶽(オーセー)
琉球王国当時、各村の番所(オーセー)内に祀られていた「火の神」。村の安全、平和、豊作、人頭税の無事完納を祈願した場所でした。「火の神」は、番所廃止後も、火の神御嶽として祀られたり、小さな祠に祀られたりしています。
宮良では、かつての番所に火の神御嶽を建てて、信仰しています。
小浜御嶽(クモウオン)
1771年の大津波で壊滅的な打撃を受けた宮良村は、少人数すぎて再建不能でした。当時の役所「蔵元」は、小浜村から強制移住を命じ、宮良村の再建に乗り出します。
当時小浜島から移住した人々は、宮良村の御嶽に配分されて信仰していました。移住者の中の仲宗根兄弟が小浜島で信仰していた照後御嶽(テイダクシワン)の神を分神し、祈願所を建てたのが「小浜御嶽」の始まりと言われています。
当時の小浜島からの移住者は、アカマター神事の日には、こぞって小浜島へ帰島していたと言われています。船で帰れなかった人は、干潮の時間帯に干潟を歩き、深いところは泳いで「竹富島→嘉弥真島経由」で小浜島に泳いで帰ったり、冨崎のあたりから小浜島まで泳いで帰ったりしたと言われています。
このような事情だったので、関係者と協議の上、宮良でもアカマター神事を行うことにし、特別な神事として今に伝えられていると言われています。
小浜御嶽は、小浜島の幸福繁栄と、移住者の繁栄の祈願が主体の御嶽です。境内には樹齢200年にもなる「千本足ガジュマル」や、宮鳥御嶽にもあり、県から天然記念物指定されている「リュウキュウチシャノキ」が自生しています。
嘉手納御嶽(カチガラオン)
八重山島由来記では「嘉手納御嶽」とあります。創立の由来は「仲嵩御嶽」と同じです。
6嶽の創建の歴史から、宮良・白保はほとんど同時期に設立された村のようです。嘉手納御嶽は嘉手納原にありましたが、1953年に白保村中へ移されました。津波の被害にあって高台に移設されていた御嶽を、創建当時にあった場所に戻されたと言われいます。
村中の位置には津波後、村民のために真謝井戸を再掘した真謝翁の墓があった場所とされています。
豊年祭や神事を行う御嶽とされています。
真謝御嶽(マジャオン)
八重山島由来記では「真和謝御嶽」とあります。創立の由来は「仲嵩御嶽」と同じです。
古くからある御嶽ですが、明和の大津波の際に流されてしまったので、上野地という場所に一時奉遷していました。大正時代になって元の位置に戻されたと言われてます。
火の神御嶽(オーセー)
白保村の火の神は、昔の村番所(オーセー)のあった位置に建てられています。御嶽として、火の神を祀っている場所です。1900年代初頭には番所(オーセー)に村の学校もあったと言われています。現在では、村を守る神様として祀られています。白保のオーセーの前の道は「ンマガミチ」とも言われ、作物に虫がつかないように馬を駆けさせる神事が行われている場所です。
波照間御嶽(アスクオン)
波照間御嶽という名前ですが、一般的に「アスクオン」と呼ばれています。明和の大津波の際に、白保村再興のため、波照間島から強制移住を命じられた波照間島の住民が、波照間島の阿底御嶽(アスクオン)の神を分神し、祀ったのが始まりとされています。
盛山御嶽(ムリャーオン)
明和の大津波後の創建の御嶽です。現在では盛山村は廃村になっているため、信仰が途絶している御嶽です。
大津波後、竹富島トゥンドウ村から石垣島の冨崎野に移住させて冨崎村を創建。村名を宇良村に改称しました。
冨崎の地は、土地の生産性が低く、作物が実りにくかったため、やむなく、石垣島の東海岸にある土地が肥沃な桃里村の属地「盛山」に移住して村敷替えを行ったのが「盛山村」です(1785年)。
村の守護神である御嶽は、竹富島から移住する際に、幸本御嶽の分神を頂いた神様です。竹富島から冨崎。冨崎から盛山へ奉遷してきて、盛山御嶽となりました。
ですが、盛山は「ムリャー風気」と言われ、マラリアが流行っていた地域でした。年々人口が減少し、1917年に廃村となりました。
仲夢御嶽(ナカイミオン)
八重山島由来記では「仲夢御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。
桃里村地域内にある御嶽で、歴史も古い御嶽だということがわかります。桃里村の御嶽なら「桃里御嶽」となってもいいんですが、仲夢御嶽となっていることから八重山島由来記が書かれた1705年当時に、すでに村があったのではないかと推測されます。
桃里村は1914年に廃村になっています。
半嵩御嶽(ハンダキオン)
八重山島由来記では「半嵩御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。由来では、桴海村の御嶽ですが、現在は伊原間部落の御嶽として祀られています。
伊原間村の言い伝えによると、昔、桴海村の別れ人によって金武岳の北の半嵩むるに村が創建された。それを半嵩村と呼んだ。その後は、半島中部のフタナカに移りウチィヌムラとなった(現在の明石部落西方)。そのウチィヌムラは伊原間村が村建てされたときに伊原間に移ってきて村建ての中心をなした。
御嶽は現地にそのまま置かれたが、1965年に伊原間公民館へ奉遷した歴史があります。
徳底御嶽(トクスクオン)
八重山島由来記では「徳底御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。
言い伝えによれば、現在の平久保部落に位置には「花城村」があり、現在の平野部落の場所に「平久保村」があった。事情は不明ですが、両村が合併し、村名は「平久保」、場所は花城村があった場所になったようです。
徳底御嶽は合併前の花城村の御嶽だったと推測されます。合併後は平久保村の御嶽として信仰されているものだと考えられます。八重山島由来記には徳底御嶽は平久保村の御嶽との記載があるので、花城村と平久保村の合併は1705年以前だと考えられます。
大底御嶽(ウフスクオン)
安良村の御嶽ですが、創建は大浜村の大底御嶽からの奉遷だと言われているので、名前ももともとの御嶽の名前「大底御嶽」となっています。
安良村は1753年に創建された村で、石垣島島内、伊原間、白保、竹富島からの移住者で創建されたと言われています。大浜村の大底御嶽を奉遷していることからも、大浜村出身の人も含まれていたと考えららますが、記録には残っていません。
安良村は1912年に廃村となります。廃村後も当時の神司は大底御嶽へ行って祭事を行っていたようです。
大底御嶽は、豊作の神として知られています。
久志真御嶽(クシィマオン)
廃村となった久志真村の御嶽です。現在の久宇良部落北方に昔の姿のまま残されています。久志真村は1874年ごろに廃村となったと伝えられています。
廃村以前の久志真村には、桴海流れと伝えられる「真世加那志(マユンガナシ)」の祭祀が行われていたと言われています。1945年以後、廃村だった久志真村に開拓移民が入植して「久宇良部落」を建てました。
開拓者たちは「うがんじゅ」と呼んでいる御嶽です。
根原御嶽(ニーバルオン)
八重山島由来記では「ネはら御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。
仲筋村の御嶽です。仲筋村が建てられたのは非常に古く、「慶長検地記録」(1610年)にも「川平、中筋、ふかい、きやか四村で川平間切を形成」との記述がある。
根原御嶽の場所は、現在の吉原部落のすぐ東にある。鳥居の外には海岸へ続く道となっています。仲筋村の位置は川平湾の東岸にあったと言われているので、根原御嶽からは800mほどの距離になります。これは、仲筋村が興亡に際し移動していった歴史があるのではないかと推測される資料になっています。
与那真御嶽(ユナマオン)
八重山島由来記では「與那真御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。
言い伝えでは、川平村の与那真家の祖先により拝み始めた氏御嶽であると言われています。御嶽の中に香炉などが置いていない御嶽です。川平与那真家の屋敷内に香炉が置かれ、祭祀が行われているようです。御嶽の香炉を移したのではないというお話もあります。
西大田御嶽(イールフダオン)
八重山島由来記では「いてほた御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。
桴海村の御嶽との記述があります。米原部落の海岸近くの密林の中にある御嶽です。御嶽名の「イール」は「いる」で「西」。「フダ」は地名の「大田」のこと。「西大田(イールフダ)にある御嶽(オン)」で「イールフダオン」と呼ばれています。
氏子は石垣家(イシャナギヤー)と言われ、「イールトゥニムトゥヤー」(西の刀彌元家)と尊称されていたようです。御嶽では桴海村のマユンガナシィの面や杖などが保管されていたようですが、盗難にあってしまったようです。
桴海御嶽(フカイオン)
八重山島由来記では「子はら御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。
子はら御嶽と書いて、ニーバルオンと呼ばれていた御嶽。一般には桴海御嶽(フカイオン)で親しまれています。境内には、センダン、フクギ、ガジュマルなどの大木が繁茂している御嶽です。
一帯の御嶽の結願祭は桴海御嶽に招神して行われています。村の関係者の言い伝えによると、仲筋村の根原御嶽の分神を祀って建てたものであると伝えられています。嶽名の「ニーバルオン」は、こういう理由で仲筋村の御嶽「根原御嶽(ニーバルオン)」と同名になっているのではないかと考えられます。
石垣島北部の村建ては「川平」から次第に東へ展開されていったと考えられていますが、桴海村の住民の家には平久保のご先祖様の位牌があったと伝えられており、住民は、平久保からの移住者であったと言われています。
桴海村のウルカヤー(砂川家)は「島の本の刀彌元家」と呼ばれ、村の中心をなした家のようですが、東西にも「刀彌元家」と言われる家があり、西の刀彌元家が石垣家(イシャナギヤー)で、東の刀彌元家が新垣家(アーラーヤ)でした。
桴海御嶽と西大田御嶽には深い関係があったと考えられます。
桴海村は川平方面から来た人々と、平久保方面から来た人々が合流して村建てしたと考えられます。
宇根御嶽(ウニオン)
桴海御嶽(ニーバルオン)の子嶽(フワーオン)として創建された御嶽です。桴海村の堀川家の先祖が土地がなかったので、平久保までいって田んぼを作った。稲を収穫し、船で運ぶ際に航海安全をイビ(自然石)に祈願したのが始まりとされています。宇根御嶽は海岸に面した場所に建てられています。
野底御嶽(ヌスクオン)
八重山島由来記では「野城御嶽」とあり、由来相知れずと書かれています。
1905年に廃村になった野底村の御嶽です。現在では、ジャングルと化してしまっている御嶽。野底村の創建は1732年の黒島からの強制移住者によってなされました。野底マーペ伝説で有名な野底岳が展望できる場所です。
廃村後は多良間出身者たちが、多良間の神霊を勧請していた時期もありましたが、現在では植物が生い茂る場所となっています。
七嶽
八重山島諸記帳には、
美崎宮鳥長崎天川糸数名蔵崎枝 此七嶽毎年上國役人立願結願仕候是は定納船弐艘上下海上安穏之為
という記録があり、「美崎」「宮鳥」「長崎」「天川」「糸数」「名蔵」「崎枝」の七つの御嶽は「七嶽(ななたけ)」と呼ばれていたようです。
琉球王府への定期船を出す時に航海の無事と安全を祈願する御嶽。古くから旅嶽として信仰の厚かった御嶽が七嶽です。現在でも、各御嶽は航海安全の祈願場所でもあります。
神役七役組織
美崎御嶽のような、神格の高い御嶽は、蔵元(役場)が管理する公儀御嶽と言われています。
蔵元が管理するような御嶽は、神役組織も一般的な御嶽と違って「七役」と呼ばれる組織が作られ管理されていました。七役は文献、記録にはなく、明らかにはされていませんが、現在の神司たちによる伝承によると次のようになります。
美崎御嶽七役
大阿母(ウフアム):司祭者・八重山最高神職
永良比金(イラビンガニ):大阿母に次ぐ神職
キライ:たかび願い、厄病除け願い等担当神職
シドゥ:航海安全担当神職
フンナイ:航海安全担当神職
世ヌ主(ユヌヌシイ):豊年・豊作、水元の願い担当神職
山当り(ヤマアタリ):御嶽の管理担当神職
七役は、それぞれの分野を担当し、且つ協力しあって、数多い祭祀の執行を行なっています。身分上「ナンツァヨージィ(銀製の髪差し)」をさすことが許されており、以下の神司は「カーミヌクウヨージ(べっ甲製の髪差し)」をさすことになっていたと言われています。
御嶽の起源と役割
御嶽には神様が宿る場所という意味の他にも、人々の心の拠り所、集団としての意見をまとめる場所などの様々な意味合いがあります。昔は、御嶽が公民館のような役割をしていたのではないでしょうか?
集落の中の家の数が30戸を超えると「御嶽」を作るように推奨されたなどの言い伝えもあり、人々の生活をまとめるにはなくてはならない存在でした。
石垣島の御嶽の起源は、9つの由来があります。詳しくは、こちらの記事を読んでみてください。
関連記事>>>御嶽にある「拝所」と「イビ」の意味、御嶽の起源
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それじゃあ、楽しく旅してね!
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